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ダンスセラピー ブログ

ダンスセラピーグループと個人での効果の違いは?

ダンスセラピーでは
グループと個人
セッションがあります

それぞれ効果の特徴があり

グループでは主に
人間関係にまつわる事に効果があります
例えば・・
お互いに触れ合う、輪になって踊ってみる、
といったみんなで何かするという事に

レゾナンツとい
体の触れる距離など色々影響しあって
自分と相手のコミュニケーションに役立ちます。
そこで距離感だったり、受け止め方など人間関係のコミュニケーションに必要な事を学ぶんですね

個人では

自分の体の動きや感覚の知覚を自分で確かめながら感じたことを話したりしながら行っていきます。


自己発見自己成長などの自分自身にまつわることが主です

まだグループにはちょっと・・など特にHSPの方には個人でのセッションからがお勧めです
まず自己を掴んでいって、自分なりの信念や自分ってなんだろう?、自分の思い癖、体の感覚の事など自覚して自分を安定してからグループに入ると人に対して敏感な方は疲れにくい対抗が出来ているメンタルで行くと良いですね。

人生進路にまよってる学生さん
就職したけどなんかこの仕事でいいのだろうか?

というモヤモヤを抱いている方にも個人セッションが
とってもおすすめです。

グループと個人のセッションを同時に行う場合もあります。グループと個人の効果を使って進行できるのがメリットです。

ちなみにドイツ(ダンスセラピー)
ではそういう効果が
現れている
もしくは
すでに
もう現れている事を

現象してある
と言い

ドイツの哲学者
へーゲルの
現象学
からもこの
思想を取り込んで

分析方法とし学び
活用もしていきます

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ダンスセラピー ブログ 心のお話

ネガティブな心の事

写真は夏のドイツのライン川のお城の上から!
ドイツでは・・・
草木の緑の色が生き生きとして
草木の茂みから
もう初夏の匂いが
優しいそよ風に乗って漂ってきました。

日本では梅雨の時期に入りますね。
ドイツ・ヨーロッパでは夏は清々しくじめっとした梅雨が無いです。
日本のじめっとした空気が苦手で
ヨーロッパ着たての頃は清々しさにフレッシュな気分が楽しい夏でした。

でも今は日本の独特な梅雨の時期に一時帰国した時に

アジサイとお寺
神社と雨の静けさ
都心のビルの人ごみの雨の傘の群れ

日本独特の文化の匂いを感じて
日本の梅雨もいいなあ~って

感じました。

梅雨に雨ばっかりで病んでしましそうですが、
そういう風景を違う目で見ると芸術になります。

感情の激しい怒りや、憂鬱な、悲しい、センチメンタルな、時にはアブノーマルな性の悩み
こういうネガティブな心の叫びも
芸術創作ではインパクトある題材に変化します。

ネガティブな事も使い方によっては
大きなモチベーションになりますね。

野心だって最初は『見返すぞ!』という復讐心から
いつの間にか
皆の為に貢献して行きたい
という愛に代わるかもしれません。

なのでどの心も大切に受け止めて下さいね!
それが自分。
ネガティブもポジティブも

ダンスセラピーで
ネガティブな自分が出てきたら、
それも自分。

そういう心を表す踊りもあるんですよ。

踊るって心の発見と発散です。
そしてそういう感情が
芸術の材料であります。

普段表現できない心も
踊って表現して
そういう自分
受け入れてあげましょうね!!

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スピリチャル

瞑想ベリーダンスは鎌倉時代からあった!?

今日は私の瞑想ベリーダンスの理念、論理、がなんと鎌倉時代~くらいから活躍した浄土教、時宗の開祖一遍、一遍上人の踊念仏がまったく同じでびっくりしたお話です。
一遍、彼の詳しい事は今日は理念のお話にフォーカスしたいので彼の簡単な自己紹介はこちらのリンクでチェックしてね。→一遍
彼の踊念仏という哲学が私の成し遂げたい踊りの理念と合っていてとても感動しました。で、早速何が?という事で、ある本に出合ったのがキッカケでした。その本から引用します。

延暦寺東塔桜本の兵部堅者重豪が「踊りて念仏申さるゝ事けしからず」と、一遍を訪ねて難結したとき、一遍は「はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる」、跳ねたければ春駒が跳ね踊るように跳ねればよいし、踊りたければ踊って念仏すればよい、そうすれば春駒にのることはできなくても、仏の教えを会得することはできるでしょう、といったところ、重豪は「心こまのりしづめたるものならばさのみはかくやをどりはぬべき」、たけたつ心の駒をのりしづめるのが法の道である。欲望のままに動きやすい心を静かにおさえるのが道なのに、どうしてそんなに踊りはねる必要があるのでしょうか、といったが、それに対して一遍は「ともはねよかくてもをどれこゝろごま みだのみのりときくぞうれしき」、ともかく踊りはねたいという心の駒は思うざま跳ねおどらせばよいのだ。そこから得られる歓喜こそが阿弥陀仏の御法の声だと思えば嬉しいことなのだ、と答えている。

この二人のやり取りに対して

ここには身心を「静」の状態において仏を見ようとする重豪の立場と、身心を「動」にたかめることによって仏と一体化をはかろうとする一遍の立場の相違を知ることが出来る
と著者は書いている。